​絵画と共に巡る親鸞聖人の生涯

​>1.親鸞聖人
​>2.誕生
​>4.比叡山
​>5.六角堂
​>6.信行両座
​>7.遠流
​>9.稲田草庵
​>11.帰路
​>12.上洛面談
​>13.往生
​>14.大谷
​>10.逆縁摂化
親鸞聖人(しんらんしょうにん)がどの様な方だったのかを、名張市西光寺本堂内部に展示されている絵と共にご紹介致します。
こちらの絵は、いつでも本堂内で閲覧することが可能です。
​是非、お立ち寄りの際にご覧ください。
こちらの紹介文章は本山の本願寺ホームページ」の浄土真宗本願寺派の寺院関係者、僧侶、門信徒による布教、伝道のための印刷物(「寺報など」)を作成する場合に限り、当サイト上の情報を利用することができる。等の記載事項より、内容を一部参考および抜粋させていただいております。
​詳細は「本願寺ホームページの親鸞聖人の生涯」をご覧ください。

親鸞聖人

親鸞聖人(しんらんしょうにん)は浄土真宗(じょうどしんしゅう)をお開きになられました。
浄土真宗の宗祖(しゅうそ)、ご開山(かいさん)とも呼ばれます、
浄土真宗は仏教の一つであり、仏教はインドのお釈迦様が説かれた仏の教えです。
親鸞聖人は1224年に浄土真宗の教えを体系的に述べられた『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を著されました。
弘長(こうちょう)2年11月28日(新暦1263年1月16日)に往生の素懐(そかい)を遂げられました。90歳でありました。
親鸞聖人の命日には宗祖に対する報恩感謝のため
「報恩講(ほうおんこう)」と呼ばれる法要があります。
西光寺では毎年11月の最終土日で報恩講が営まれます。
 

​誕生

平安時代の後期、承安(じょうあん)3年(1173年)の春、親鸞聖人は京都の現在の日野誕生院付近(京都市伏見区日野)にて誕生されました。
父は藤原氏の流れをくむ日野有範(ひのありのり)、母は吉光女と伝えられています。幼名は松若丸といいます。
 

得度(とくど)

得度(とくど)は仏教における僧侶となるための儀式。
9歳の春、伯父の日野範綱(のりつな)にともなわれて、慈円和尚(じえんかしょう)のもとで出家・得度(とくど)をされ、範宴(はんねん)と名のられました。

伝説によれば、慈円が得度を翌日に延期しようとしたところ、わずか9歳の範宴が、

「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」

と詠んだという。

無常感を非常に文学的に表現した歌である。

​日野誕生院にこちらの和歌の石碑があります。

 

比叡山

比叡山(滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山)にのぼられ、主に横川(よかわ)の首楞厳院(しゅりょうごんいん)で不断念仏を修する堂僧(どうそう)として、20年の間、ひたすら「生死いづべき道」を求めて厳しい学問と修行に励まれました。
20年間比叡山で厳しい修行を積まれますが、迷いの霧が晴れることはなく、聖人は山を下りる決心をされます。

六角堂

親鸞聖人29歳のとき(1201年)、叡山では悟りに至る道を見出すことができなかったことから、ついに山を下り、京都の六角堂(ろっかくどう)に100日間の参籠(さんろう)をされました。
尊敬する聖徳太子に今後の歩むべき道を仰ぐためでありました。
95日目の暁、親鸞聖人は太子の本地である救世観音(くせかんのん)から夢告(むこく)を得られ、東山の吉水(よしみず)で本願念仏の教えを説かれていた法然聖人(ほうねんしょうにん)の草庵を訪ねられました。100日の間、聖人のもとへ通いつづけ、ついに「法然聖人にだまされて地獄に堕ちても後悔しない」とまで思い定め、本願を信じ念仏する身となられました。

信行両座(しんぎょうりょうざ)

信行両座(しんぎょうりょうざ)とは阿弥陀仏の本願を信じる一念に浄土往生が決定するのか(信不退)、あるいは念仏をはげみその功徳によって浄土往生が決定するのか(行不退)、どちらの立場が聖人の教えに適っているのか、二つの座を設けて、法然聖人の門下の信をたしかめたものです。
吉水(よしみず)の草庵の一室で、法然聖人が奥の畳に一人で座り、その左手の「信不退の座」に並んで座る三人のうちの一人が親鸞聖人です。その反対側の「行不退の座」には多くの門弟の居並ぶ様子が描かれています。
その様子をずっとご覧になっていた法然聖人も、「源空も信不退の座につらなりはんべるべし」と、信不退の座へお座りになりました。

​遠流

そのころ法然聖人の開かれた浄土教に対して、旧仏教教団から激しい非難が出され、ついに承元(じょうげん)元年(1207)専修(せんじゅ)念仏が停止(ちょうじ)されました。法然聖人や親鸞聖人などの師弟が罪科に処せられ、親鸞聖人は越後(えちご新潟県)に流罪。これを機に愚禿親鸞(ぐとくしんらん)と名のられ非僧非俗(ひそうひぞく)の立場に立たれました。

東国への旅

このころ、三善為教(みよしためのり)の娘である恵信尼(えしんに)と結婚し男女6人の子女をもうけられ、。在俗のままで念仏の生活を営まれました。
1211年に流罪が許され、建保(けんぽう)2年(1214)42歳の時、妻子とともに越後から関東に赴かれ、以降約20年の間、関東で布教をされました。
 
 
 
 
 

稲田草庵

陸(ひたち茨城県)の小島(おじま)や稲田(いなだ)の草庵を中心として、自ら信じる本願念仏の喜びを伝え、多くの念仏者を育てられました。1224年頃、浄土真宗の教えを体系的に述べられた『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を著されました。
 

逆縁摂化(ぎゃくえんせっけ)

親鸞聖人が広められた専修念仏(せんじゆねんぶつ)に対して、快く思わない山伏(修験者)の弁円が改心する時の話の絵です。
「弁円済度(べんねんさいど)」として語られています。
山伏の弁円は、親鸞聖人が行き来する山中で、聖人に危害を加えようと武器を持って待ち伏せすることにしました。しかし、親鸞聖人は、何度待ち伏せしても現れませんでした。
しびれをきらした弁円は、親鸞聖人の草庵に乗り込んでいくことにしました。草庵に乗り込んできた山伏の弁円は親鸞聖人に天誅を下そうとしましたが、親鸞聖人は「私の後生(ごしょう)は阿弥陀如来にお任せしています。それよりも私は、今日、あなたが私を訪ねて来てくださったご縁を大切にしたいのです。自らで自分を救うことは出来ず、救いは与えられるものです。」と申しました。

このような広い心の親鸞聖人に接した弁円は、危害を加えようとした気持ちが消えてしまい、それから今まで心に抱いていた思いを聖人に打ち明け、弁円は専修念仏(せんじゅねんぶつ)に帰依して、聖人から明法房(みょうほうぼう)の名を頂きました。
 

​帰路

1235年頃、親鸞聖人63歳のころ、関東20年の教化(きょうけ)を終えられ、妻子を伴って京都に帰られました。
『教行信証』の完成のためともいわれ、主に五条西洞院(にしのとういん)に住まわれました。京都では晩年まで『教行信証』を添削されるとともに、「和讃」など数多くの書物を著され、関東から訪ねてくる門弟たちに本願のこころを伝えられたり、書簡で他力念仏の質問に答えられました。
 

上洛面談

 親鸞聖人は帰洛の後も、関東のお同行に対して、書簡で念仏生活のありかたや教義を説かれました。また関東から訪ねてくるお同行には、親しく面接されました。
しかし関東では我が子の善鸞(ぜんらん)が正しい念仏者にも異義異端を説き、混乱させる事がおこり、親鸞聖人は我が子の善鸞を義絶(ぎぜつ)するという悲しい出来事もありました。
​親鸞聖人84歳の時の事でありました。
 

往生(おうじょう)

弘長(こうちょう)2年11月28日(新暦1263年1月16日)、親鸞聖人は三条富小路(とみのこうじ)にある弟尋有の善法坊(ぜんぽうぼう)で往生の素懐(そかい)を遂げられた。90歳でありました。
90年におよぶご生涯は、まさに苦難の道でありました。
臨終は、親鸞の弟の尋有や末娘の覚信尼らが看取られました。
親鸞聖人のお導きは今も受け継がれています。
 

大谷

親鸞聖人が弘長2年(1263)に90歳で往生されると、京都東山の鳥辺野(とりべの)の北、大谷に石塔を建て、遺骨をおさめられました。
しかし、聖人の墓所は簡素なものであったため、晩年の聖人の身辺の世話をされた末娘の覚信尼(かくしんに)さまは、1272年に、大谷の西の吉水(よしみず)の北にある地に、関東の門弟の協力をえて六角の廟堂を建て、ここに親鸞聖人の影像(えいぞう)を安置し遺骨を移しました。 これが大谷廟堂(おおたにびょうどう)であります。