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​六字名号(名張市文化財)

1468年に本願寺蓮如上人(ほんがんじれんにょしょうにん)が名張市西光寺にお立ち寄りになり、上人直筆の六字名号(ろくじみょうごう)の南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)を賜わったと寺伝に書されている。

縦45センチ、横19センチの紙本が軸装されたものだが、

南無阿弥陀仏の六字が達筆な草書体で書かれている。

 明治38年(1905年)3月、 当寺の住職金澤定円(じょうえん)師が西本願寺に鑑定を依頼すると、 蓮如上人の真筆に問違いないとされ、 その鑑定書も保存されている​。右の画像は寺宝本体そのものである。

南無阿弥陀仏とは阿弥陀如来の本願力(ほんがんりき(仏の願いのはたらき))に帰依(きえ(よりどころにするという意味))しますという意味。

南無阿弥陀仏は浄土三部経(じょうどさんぶきょう)の一つの『無量寿経(むりょうじゅきょう)』に出てくる法蔵菩薩が四十八願を述べた中の第十七願と第十八願の名号(みょうごう)に由来する。

​名号とは南無阿弥陀仏であり、名を称える称名念仏(しょうみょうねんぶつ)である。

また、南無阿弥陀仏は親鸞聖人は『教行信証』で

「しかれば南無の言は帰命なり~中略~ここをもつて帰命は本願招喚(仏さまのお呼び声)の勅命なり。」とお示し下さいました。

即ち、南無阿弥陀仏とは阿弥陀如来が「任せよ、必ず救う」と仰って下さるお姿そのものであります。

​※一般公開されていません。

六字名号

​阿弥陀如来像

阿弥陀如来像(あみだにょらいぞう)は1656年11月23日に本山の京都本願寺から授けられ、同時に西光寺(さいこうじ)の寺号を許された。
阿弥陀仏とは極楽浄土にいて衆生(しゅじょう(生きとし生けるもの全て))を救済する仏のこと。
お経の一つである『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』に出てくる法蔵菩薩が世自在王如来(せじざいおうにょらい)のもと四十八願をたて、長期間の修行を果たし現在の阿弥陀仏となり、極楽浄土への往生(おうじょう)を願う衆生を摂取(せっしゅ)する。四十八願のうちの第十八願が称名念仏(しょうみょうねんぶつ(南無阿弥陀仏と称えて浄土往生を願う))の根拠である。
阿弥陀如来像の特徴は立像(りゅうぞう)である。
浄土三部経の一つ『仏説観無量寿経(ぶっせつかんむりょうじゅきょう)』の中の住立空中尊(じゅうりゅうくうちゅうそん)に由来する。
立像であり手前に少し傾いている理由は阿弥陀如来が「あなたを救わずにはおれない」という姿を表しているからである。
​阿弥陀如来の真の願いは、私たちの不足不満を満たしてくれという欲望の中でしか生きていないこの私を真実の世界に気づき目覚めよ、という願いであり、如来の願いはそんな私の心が育ってゆくことである。浄土真宗の名の真(まこと)に結びついていく。
阿弥陀如来像

木像聖徳太子立像

聖徳太子立像は、高さ50センチの極彩色を施された逸品で、慶応4年 (1868年〉4月21日に奈良の正覚寺から当寺に寄せちれたと裏薯にある。十二世観請の妻教栄が正覚寺の出身で、その子十三背寛了の代に母の形見として、実家の正覚寺から送られたものである。
​聖徳太子は仏教興隆に尽くし、法隆寺・四天王を建立するなど多くの業績を残す。
四天王寺は大阪天王寺にあり、近くには夕陽ケ丘がある。夕陽は日が沈む事を意味し、西方浄土と深く関係がある。​
毎年、8月20日午後6時から宗派問わず近郷の講員さんによる太子講法要が行われています。
木像聖徳太子立像

​七高僧掛け軸

​七高僧(しちこうそう)掛け軸は浄土真宗を開かれた親鸞聖人(しんらんしょうにん)が選定した7人の高僧を軸装になったものである。
七高僧はインド・中国・日本に浄土教の真意を解き明かした方々である。
釈迦(しゃか)(インド)以来、仏教伝来から親鸞聖人が浄土真宗を開かれるに至るまでの伝統を大切にしている。

第一祖龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)(インド) 

第二祖天親菩薩(てんじんぼさつ)(インド)

第三祖曇鸞大師(どんらんだいし)(中国)

第四祖道綽禅師(どうしゃくぜんじ)(中国)

第五祖善導大師(ぜんどうだいし)(中国)

第六祖源信和尚(げんしんかしょう)(日本)

第七祖源空(法然)聖人(げんくう(ほうねん)しょうにん)(日本)

七高僧掛け軸

親鸞聖人掛け軸

親鸞聖人(しんらんしょうにん)は1173年に現在の京都市伏見区日野にて誕生されました。後に浄土真宗をお開きになられました。
聖人は9歳の頃に天台宗慈円和尚の下に得度されました。
​比叡山で20年に渡り厳しい修行を積むが、29歳の時に聖徳太子が建立とされる六角堂へ百日参籠を行い、後に法然聖人の元へ通い聴聞する。
法然聖人の開かれた浄土教に対し、旧仏教教団から非難があり、専修(せんじゅ)念仏が停止され、法然聖人や親鸞聖人などの師弟が罰科に処され、親鸞聖人は越後(新潟県)に流罪。
この頃に恵信尼(えしんに)さまと結婚し、妻子と共に越後から関東、常陸(ひたち茨城県)の稲田草庵を中心に本願念仏の喜びを伝え、多くの念仏者を育てられた。
1224年に浄土真宗の教えを体系的に述べられた『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を著された。
1235年親鸞聖人63歳の頃に妻子を伴って京都に帰られた。京都では晩年まで『教行信証』を添削されるとともに「和讃」など多くの書物を著された。
弘長(こうちょう)2年11月28日(新暦1263年1月16日)に往生の素懐(そかい)を遂げられた。90歳であった。
親鸞聖人の命日には宗祖に対する報恩感謝のため
「報恩講(ほうおんこう)」と呼ばれる法要が営まれる。
​西光寺では毎年11月の最終土日で行われる。
写真右下の画像を選択すると
​親鸞聖人の生涯を「絵画」と共に紹介されているページへリンクします。
親鸞聖人掛け軸

蓮如上人掛け軸

蓮如上人(れんにょしょうにん)は、1415年に本願寺第7代の存如上人のご長男として京都にお生まれになりました。
1457年に本願寺第8代を継職し、浄土真宗の教義を、親鸞聖人の教えに立ち返りお示し下さいました。
蓮如上人の布教活動は従来とは違い、さまざまな布教方法が考案されました。
​浄土真宗の教えをわかりやすく(当時の現代語訳)手紙形式にした『御文章(ごぶんしょう)』をお作りになられました。
また、当時はお寺でしかお経を聴聞することが出来なかったのですが、お経を木版で刷った物を配布されたり、「南無阿弥陀仏」と紙に書いた物をご本尊(ごほんぞん)として各地の同朋へ授与されました。
1468年に名張市西光寺へお立ち寄りになられた際に賜った「南無阿弥陀仏」の書体は蓮如上人の布教活動の一つである。
​右下の写真は御文章(ごぶんしょう)で、蓮如上人が手紙形式に浄土真宗のみ教えをわかりやすく書かれた物です。
蓮如上人掛け軸
前卓(まえじょく)は須弥壇(しゅみだん)の前にあります。
花瓶、香炉、燭台(しょくだい)を置くためのものです。
須弥壇は阿弥陀如来像が安置されている写真奥の台です。
前卓には極楽浄土に住む6種の鳥が描かれており、浄土三部経の一つの『仏説阿弥陀経』に出てくる「白鵠・孔雀・鸚鵡・舎利・迦稜頻伽・共命之鳥」がその由来であります。
白鵠(びゃっこう)と孔雀(くじゃく)は、視覚的な美しさによって浄土を荘厳し、鸚鵡(おうむ)と舎利(九官鳥の一種)は人語を解して仏法を奏で、迦陵頻伽(かりょうびんが)は流麗な音声で三宝を荘厳し、共命之鳥(ぐみょうのとり)はいのちの平等を体現しています。それぞれ個性的に浄土を彩る鳥たちです。
​写真の真ん中の4つの巻物は、『仏説無量寿経上巻』、『仏説無量寿経下巻』、『仏説観無量寿経』、『仏説阿弥陀経』であり。浄土三部経であります。

前卓(まえじょく)

前卓(まえじょく)
 名張市西光寺に代々伝わる宝刀であり、鎌倉時代初期(1185年頃)に制作された希少性の高い一振である。 詳細は不明だが、奉納された物と伝わる。 現在は保管がお寺では難しいため外部機関に委託管理されている。 ​ 倉敷刀剣美術館により、光学顕微鏡や電子データ化を駆使し数々の資料を元に精密に鑑定がなされた。 ​鑑定結果は下記の通りである。 古備前派は、平安時代から鎌倉時代初期にかけて備前国を代表する流派で、友成系と正恒系に大別される。尚、友成系には高平・包平・助平と三名匠が活躍しており「古備前三平」と称される古備前派の中核に位置する刀工である。 本作は、二字銘を有する太刀で、銘振りを仔細に鑑ると「光包」と判読出来る。光の字を冠する古備前の刀工には他に、光家・光守・光恒等がおり、いずれも限られた作例を残すのみである。刃文は直刃調に沸・匂の変化に富んだ働きを示し、古備前派の典型作であると共に健全で出来がよく、資料性の高い一振である。 http://www.touken-sato.com/jasmk/16/12/018.html ​ 鎌倉時代初期は1185年頃であり、親鸞聖人が生誕された1173年と近い時期であり、奉納された理由等に関係すると考えられる。おおよそ800年前の姿が現在もなお見ることができる。 また、銘には「光包」と解読することができる。「光」は仏の全ての衆生救済の意味であり、「包」は私たちがすでに御仏の救い(光)に包まれている仏の大本願を感じる事ができる。詳細は不明なものの様々な願いが込められた銘と考えられる。

​古備前光包(太刀)

 古備前光包(こびぜんみつかね)は名張市西光寺に代々伝わる宝刀であり、おおよそ800年前の鎌倉時代初期(1185年頃)に制作された希少性の高い一振である。
詳細は不明だが、奉納された物と伝わる。
現在は保管がお寺では難しいため外部機関に委託管理されている。
倉敷刀剣美術館協力のもと、光学顕微鏡や電子データ化を駆使し数々の資料を元に精密に鑑定がなされた。
​鑑定結果は下記の通りである。
古備前派は、平安時代から鎌倉時代初期にかけて備前国を代表する流派で、友成系と正恒系に大別される。尚、友成系には高平・包平・助平と三名匠が活躍しており「古備前三平」と称される古備前派の中核に位置する刀工である。
本作は、二字銘を有する太刀で、銘振りを仔細に鑑ると「光包」と判読出来る。光の字を冠する古備前の刀工には他に、光家・光守・光恒等がおり、いずれも限られた作例を残すのみである。刃文は直刃調に沸・匂の変化に富んだ働きを示し、古備前派の典型作であると共に健全で出来がよく、資料性の高い一振である。
http://www.touken-sato.com/jasmk/16/12/018.html
 光包の制作時期は鎌倉時代初期は1185年頃であり、親鸞聖人が生誕された1173年と近い時期である。親鸞聖人が現役でご活躍されていた頃に制作されたと推定され奉納された理由等に関係すると考えられる。おおよそ800年前の健全な姿が現在もなお見ることができる歴史的価値の高い一振りである。
 銘は「光包」と判読することができる。「光」は仏の第18願による全ての衆生救済と深く関係し、「包」は私たちがすでに御仏の救い(光)に包まれている仏の大本願を感じる事ができる。詳細は不明であるが様々な願いや伝説と共に奉納された物と伝わっている。
古備前光包
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