~西光寺の歴史~ 

今も初瀬街道の鄙びた風情をのこす蔵持集落の奥に、

ひときわ大きな寺院の屋根瓦が遠望される。

背後の山に抱かれるように構えたこの寺院が、 浄土真宗隆盛の大恩人本願寺八世蓮如上人ゆかりの西光寺である。


寺伝によると、 当寺はもと西之坊念仏道場と称し、 今を去る500年前、 蓮如上人の吉崎本願寺時代に門徒農民9名が加賀国 (石川県金沢市)により移り住んだとされており、 その九人講の講元として当寺は発展していったという。 


境内には蓮如上人御旧跡 「お手植えの梅」 と「お憩いの石」 がある。 寺伝では、 応仁2年 (1468)、 蓮如上人が当地に巡錫の折、丈六村の又次郎家に一夜の足を休め、時の西光寺住職がここで上人に会い、上人直筆の六字名号「南無阿弥陀仏」一幅を賜わった。

上人は当地を出立する途中、西光寺へ立ち寄り、境内に一株の梅の木を植えたと御旧跡の由来が伝わる。

ことの真偽はさておいて、伝説に示された15世紀半ばという年代が、名張地方に真宗が流入した始まりの時期を示唆しているのではないかという見方もある。

ただ、当寺が名張地方では真宗寺院として最も早い時期に成立したことは確実のようである。


明暦二年 (1656) 11月23日には本山の京都本願寺から本尊を授けられ、 西光寺の寺号を許された。
中興といわれるのは十世玄正で、寛政二年(1790) に本堂の建て替えを願い出ており、文化12年 (1815) 12月、 十二世観請の代に現在の本堂が再建された。

末寺として、蔵持町芝出の山光寺、赤目町相楽の光明寺、夏見の道場、下神戸の常蓮寺をもっていた。山光寺は寛政十一年(1799) 大谷派に転派するとともに離れ、 光明寺は明治初年に独立し、夏見道場は坊垣にあって二間四面の本堂を有していたが宝暦年問 (1751~1763〉に退転、そして常蓮寺は明治17年廃絶に等しいありさまとなり、寺号は伊勢へ 、建物は一ノ井の現常蓮寺に売却した。


寺宝としては、名張市文化財にも指定されている蓮如上人筆 ・ 六字名号がある。 縦45センチ、横19センチの紙本が軸装されたものだが、南無阿弥陀仏の六字が達筆な草書体で書かれている。

 

明治38年3月、 当寺の住職金沢定円師が西本願寺に鑑定を依頼すると、 蓮如上人の真筆に問違いないとされ、 その鑑定書も保存されている。

このほかにも親鸞画像、 聖徳太子画像、 七高僧画像、 良如上人画像、 顕如上人画像など画像を多く蔵有し、 彫像とーして木造親鸞像、春日仏師自彫像、木像聖徳太子立像がある。わけてもこの聖徳太子立像は、高さ五〇センチの極彩色を施された逸品で、慶応四年 (1868〉4月21日に奈良の正覚寺から当寺に寄せちれたと裏薯にある。十二世観請の妻教栄が正覚寺の出身で、その子十三背寛了の代に母の形見として、実家の正覚寺から送られたものである。

​西光寺本堂内部(さいこうじほんどうないぶ)
蓮如上人(れんにょしょうにん)御旧跡
聖徳太子木造(しょうとくたいしもくぞう)
西光寺本堂(さいこうじほんどう)
西光寺境内航空写真